マヌカハニーの日本人養蜂家ブログ!

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養蜂職人のマヌカハニー情熱ブログ!

ニュージーランド在住の日本人養蜂家が
マヌカハニーの生産現場を語ります。
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  • ニッキの香りと思い出

    2018年04月20日更新

    こうして少年時代の想いをめぐるとキリがない。四季折々、実に色々な事を考え出して遊んだものだった。前回のメジロ取りに使う鳥モチは、近所の駄菓子屋に行けば置いてあったが小遣いの十円でいくらも買えないので自作した。山中を歩き回り ”モチノキ” を探すのだ。
    少し時間をかけて探せば見つかるもので、葉っぱが丸みを帯びた何の変哲もない低木の雑木だ。それが本当に ”モチノキ” なのかは経験豊かなガキ大将が鑑定し、その樹皮をナイフでこそげ落とす。ナイフはこの頃の子どもたちの必需品で、折りたたみの切り出しナイフをいつもポケットに忍ばせていた。実に様々なシーンで使い重宝したものだったが、これで鉛筆を削り勉強した覚えはない。
    削った ”モチノキ” の皮を丸め、山を下り切るとそこには沢があった。大きくて適当にくぼみんだ石を見つけては樹皮を盛り、こぶし大の石ころで小川の水をかけながら石臼で餅をつくように何回も何回も繰り返しているうちにだんだんと粘度を帯び、ついにはモチが出来上がる。こうした単純作業は子供ながらに飽きることを知っている。そうならないように、モチノキを探すと同時にニッキの木も一緒に物色して、この皮や根を噛みながら作り上げるのだ。ニッキの香りとその甘み、ほろ苦さが大好きだった。
    最近は当地ニュージーランドにも多くの外国人が移り住んでいるのか、タイ・ベトナム・マレーシアなどアジア系のレストランが日増しに増えている。たまに家族で外食をするが、こうしたアジア系の料理に使われる香辛料で、シナモンが入った料理が出てくると、その香りが急激に少年時代の思い出をよみがえらせる。シナモンとは日本語でニッキ(肉桂)の事なのだ。

  • 子どもながらのプライド

    2018年04月17日更新

    少し待っていると確実にメジロが2~3匹、囮籠(おとりかご)に近づいてくる。この時が一番ワクワクして緊張する。そして、鳥モチにメジロが掛かる。飛んできて足元にモチがくっつき、上体だけが慣性で前につんのめるので、必ず回転するようにさかさまにになって掛かる。この時、隠れていた笹薮から飛び出し出来るだけ早くメジロをモチから外さないと、羽などにモチが付いて厄介な事になってしまう。
    とらえたメジロは風呂敷に包んで籠に入れる。包んでいないと逃げようとして籠の目をついてしまいケガをする。こうして何匹かを捕らえて仲間と分けて飼育がはじまる。野生の鳥だが少しずつ人間に慣れ、餌もよく食べるようになり環境にも慣れてくる。毎日容器に水を張り、水浴をし清潔な鳥でもある。
    何のために飼うかだが、鳴き声の美しさを仲間と競うのである。この鳥の鳴き声は餌によって大きく変化する。どんな餌を与えるかは秘密中の秘密で、鳴き声のランクは3段階に分かれ、ランク順に、ツヤチョン → ツイリン → チーなのである。ツヤチョンの鳴き声が奏でられるように飼育するのは至難の業で、しゃもじ菜などの柔らかな菜っ葉をすり鉢で砕き、ヌカやビスケットの粉などを使うというが、私は何度挑戦しても成就したことはなかった。本当にこの鳴き声を持ったメジロがいたかどうか、少年期を過ごしている間は確認できなかった。
    一方、ツイリンは少し大切に可愛がれば割合容易に鳴かせることができるが、それでも結構難しいのでツイリンを持っていれば威張ったものだった。これは柑橘類をいつも餌として与えていれば鳴き出すことになる。
    一番低ランクのチーだが、これは何もしなくてもいい加減な餌で十分、いつもサツマイモを蒸かした餌ばかりを与えていると、とても短くチーと醜く鳴くのでこの事を ”芋チー” と言い、これのオーナーは手厳しく軽蔑されたものだ。もっとも戦後間もない当時は食品としての芋は貴重で、たかがメジロの飼育にビスケットなどはとても使用できず、ツヤチョンと鳴くメジロは幻的な存在だった。そして飼育する以上、”アイツのメジロは芋チーだ” とは絶対言われたくなかった。こんな感じで、子どもなりにそれぞれやることにプライドがあったように思う。

  • 私の幼少期・2

    2018年04月13日更新

    少年時代は宿題などをやっていった記憶がない。母はともかく父は、子供は自然の中でノビノビと育てることを信条としていたので、子供心ながら私はそれに甘んじていた。第一、何といってもあの自然環境内で家に閉じこもって宿題などに取り組むことは、どう譲ってもできることではなかったのだ。

    四季其々の遊びがあった。海では釣りをはじめモリを使ってまだ寒い5月頃から入水するものの、上がって着替えるのにガタガタと震えが止まらず、六尺褌(ろくしゃくふんどし)が震えて中々履けずに唇が紫色になるほどだった。
    秋が来れば、山の野生果実アケビ・ヤマナシやクリ・シイ・ヤンズコンズと呼んでいたマキ?の実など、名も無いような木の実を上げたらきりがない。春にはメジロを囮籠(おとりかご)に入れ、手製の鳥モチをもって早朝から山に入る。(前にも書いたが)浜名湖連峰の大知波山と呼ばれる山頂の飛行灯台がまだ点滅する薄暗い頃から近所の仲間と出かける。春先の遠く身が切れるような寒さにも負けず、ウグイスが寒さでまだホーホケキョウではなくチャチャとしか鳴けない頃だ。狙いはメジロの捕獲である。目標に定めた低木にメジロが入った囮籠を吊るし、その近くの笹の芯に塗った鳥モチを5・6本仕掛ける。このモチをどこに仕掛けるかによって、その日の成果に直接関係してくる。囮籠にあまり近くてもダメだし、そうかといって遠すぎたりしても駄目だ。高低の差も重要で、要は如何に自然の中に溶け込ませてメジロに違和感を与えないかのセンスが必要になる。
    鳥モチは現場に着くまで缶詰の空き缶に水を入れて漬けておき、笹の芯を唾液で十分に濡らして回転させながらつける。帰る時に鳥モチを外すためには唾液を塗っておくのが一番で、大事に保管して次回に備える。準備が整うと、近くの笹薮に身を隠し時折メジロの鳴き声をまねて仲間をおびき出す。

  • 私の幼少期

    2018年04月10日更新

    静岡県西部に位置する私の故郷は、終戦当時まで浜松で軍用機製造会社の技師をしていた私の父(四国高松出身)が、戦後の復興を目指し電動モーターの修理工場を友人の出身地で開業したことによる。
    この地は子供にとっては正に天国であった。とにかく毎日毎日忙しくて小学校から帰って来るとランドセルを縁側に放り投げて飛び出し、夏は海、秋は山、春は川、冬は近所の広場でコマ回しや凧揚げ、薄暗くなるまで家に帰ってきたことはなかった。何故夕暮れになると帰宅したのかは、夜になると狐火(きつねび)と共に狐のお化けが出ると信じていたからだ。
    蒸し暑い夏の夜には近所の大人たちが縁台(住居の庭先や路地などに置く、木や竹などで作った細長い腰掛け)でうちわ片手に将棋を指し、遠くの夜空には時折雷光が見える。面白半分に集まってきた子供相手にお化け話を、足元の蚊取り線香の香と共によく聞いたものだ。狐が人をだますという事は本当だと信じていた。山野で色んな遊びを考え出し、ミカン園で果樹を失敬したり、まるで猪のように山中を駆け巡り、それはそれは回遊魚のごとく留まることはなかった。やがて日暮れが近づき夕風で山肌の熊笹が波打つと、何か生き物の気配を感じたような、あの狐の事を思い出し不気味になって家路につくのであった。
    目いっぱい遊んで腹ペコの私に、母が大好物のサバのフライを作ってくれている。NHKの15分連続ラジオ番組 ”新諸国物語 紅孔雀” を聞きながら、炊き立ての麦飯と揚げたてのサバのフライに酢醤油をかけ堪能したものだ。その母は去年11月に100歳を迎えすこぶる元気である。マヌカハニー・プロポリスをいつも食べていたが、今は施設内のプログラム化された食事以外は誤嚥のリスクで食べることができないのが残念だ。 

  • 郷里にて思うこと

    2018年04月06日更新

    前回は学生時代のことなどを書いたが、こうした日本での思い出は本当に一瞬の事のように思えてならない。故郷を離れてもう、その2倍以上も外国生活が長くなってしまい、実に色々な事があった反面、日本での生活はほんの断片に過ぎず二十歳代までの思い出として突然途切れている。一方、こうした思い出は実に新鮮なままで心中にしまわれている。

    子供時代を過ごした田園風景は変貌し、小魚をすくった小川や釣りをした溜池・獣道を駆け巡った山野にはスーパーや量販店が建ち、山は削られ宅地となり、これではまるで ”浦島太郎” である。子供たちを連れて故郷を尋ねても案内しようがない。遠くに見える愛知県との県境、浜名湖連峰を指さし ”あそこの山頂には昔、飛行灯台があってそれが赤く光る。まだ暗い内にオトリのメジロ籠と鳥モチをもって、小鳥を捕らえに寒い早朝から遊んだものだ” など昔話を聞かせながらJR在来線に乗っていると、途中から乗り合わせてきた外国語を話すグループがあった。話の内容から出稼ぎ労働で訪日したのだろう。聞きなれたポルトガル・スペイン語を話す人種が故郷の在来線で乗り合わせるなど、子供のころは想像もしなかった事であり、そして外国生まれの子供たちを連れて故郷を訪れることなど夢にも思わぬことであった。
    浜松市からJR線の下りで5つ目、浜名湖畔に面した鷲津という駅がある。ここが私の育った故郷で、海・山・川ありで文字通り自由奔放に育ち、このことは今でも両親に感謝している。育った家から少し行くと豊田式自動織機を作った豊田佐吉の生家があり、何の変哲もないどこにでもある農家が今はトヨタ自動車の記念館として保存されている。子供たちを連れて行って、どんなことでも最初は本当に小さなことから始まるという事を知ってもらいたかったのだ。トヨタ自動車の礎となった豊田佐吉は私の小学校の大先輩である。

  • 呼び覚まされる追憶

    2018年04月03日更新

    私は昔から下手の横付きでよく台所に入る癖がある。流しの水槽にまた包丁が浸かっていたので、舌打ちしながら洗って所定の場所に片付ける。本当に何度言っても分からないのだ。私はこの有り様を見るのが実に嫌なのである。

    記憶は学生時代に遡る。当時は本当に怖いもの知らずで、どこにでも飛び出ていったものだ。(現在の国土交通省である)当時の建設省が主催した特殊車両の訓練所が茨城県にあり、ブルドーザーやパワーショベルなど大型建設機械のオペレーター養成コースがあったので、そこに一ヶ月間泊まり込んだ。恩師の教えに賛同し、いずれ要開発国に行くつもりであった私はその準備として訓練に加わった。他にも大学の先輩・後輩が数人程参加していた。
    その中にYという後輩がいた。非常に思慮深く豪放磊落(ごうほうらいらく)さを併せ持った面白い男だったので、よく面倒をみたことがある。そこの訓練所は農家出身の若者を対象に50人ほどの訓練生がいて、寝食を共にし、食事の後は当番制で食器洗いをした。私と後輩のYが当番をしていた時の事だ。Yが流しの水槽に浸けてある食器を洗おうと手を入れた瞬間、水がぱっと赤く染まった。浸けてあった包丁に気付かず指の動脈を切ったのだ。傷はかなり深く、開いた指からは血が噴き出ていた。この事は何年経っても忘れることはない。

    それは、Yが卒業と同時に戦禍のベトナムに農業指導員として家族の反対を押し切り渡ったのだが、間もなく行方不明になってしまったのである。オーストラリアに住むYと同僚の後輩は当時ベトナムで一緒に仕事をしていたが、Yがベトコン(南ベトナム解放戦線)に連れ去られていくのを夢の中で見たと言う。本当に良い奴だった・・・台所の包丁を見ると思い出してしまうのだ。
    最初は猛者であるYの事だからどこかできっと生きているだろうと信じていたが、ベトナム戦争が終わり新しい時代の到来となっても、結局何も分からないまま今日に至っている。
    この他にも南米にアフリカ経由で渡航した先輩がいたが、夜中に甲板上でいなくなってしまったり不慮の事故で死去した者もいた。私も今になって思えば若気の至りで随分と無茶なことをしてきたし、今まで何もなかったことが不思議なくらいだ。命あっての物種という事を今になってやっと少しは解ってきたような気がするのだ。 

  • わが母校 ”農大団結節”

    2018年03月30日更新

    前回の母校についての話に戻すと先輩、後輩が当時、恩師の崇高な考え方に共鳴して海を渡っていったわけだ。未開のジャングルを開き、食料生産をすることに希望と生きがいを感じていた。しかし、その後はこうした原始林の伐採は気候変動をきたし、地球の環境破壊を意味する事になる。上記農大学歌にある ”科学の力に 自然を服し” など今では受け入れ難い事なのだ。
    こうした時代の変化はWindows95がリリースされた当時、誰も今日のようなIT時代が来るとは思わなかったように、学歌の第3番は残念かな時代錯誤そのものであろう。
    一方、母校の応援歌に ”農大団結節” と言うのがあり、4番か5番に下記の様な歌詞があった。

    ”オース オース団結だ オース意気だよ その意気だ
    南洋に行ったら何をする くろんぼ達を煙に巻き
    酋長の娘をものにする
    オース オース団結だ オース意気だよ その意気だ”

    人種偏見も甚だしいので今ではこの歌詞は切り捨てられ誰も歌うものがなく、忘却の彼方に葬り去られている。当然と言えば当然であるが、こうして青春の夢が幻として終わろうとしていることに一抹の寂しさを感じずにはいられないし、学生時代の仲間に逢って昔を忍ぶことすら時代の波に押しつぶされてしまったという感がある。
    しかし、若い時に恩師から与えられ真剣に考え実行したテーマは、今でも色んな意味で原動力となっているようだ。自分ではあまり気が付いていないかもしれないが・・・。そう時折思うことがある。

  • 変貌する未来

    2018年03月27日更新

    こうして多くの卒業生が南・北米・カナダはじめアジア・アフリカ諸国に赴いて行った。創設者の恩師が死去し、学科名が国際農業開発学科に改名されて現在に至っている。
    以下は母校東京農業大学の学歌の第3番である。

    ”科学の力に 自然を服し 
    尽きせぬ富源を 四方にひらき
    永久に現ぜん 祖国の栄えを
    重くも大し われらが使命”

    インターネットが世界的に普及するきっかけとなった1995年リリースのマイクロソフト社Windows95、これは私が南米から当地ニュージーランドに移り住んだ年でもあった。インターネットの究極目的は、TVをネット回線で配信することであったようだ。当時のパソコンのデータ処理は今と比べ物にならないほど遅くメモリー容量も数メガビットと、いずれも今日のちっぽけなUSBメモリーと比べて遠く及ばないものであった。この時代に今日のようなネット回線を通じて、殆ど無料に近い料金で無制限に世界中と通話ができることなど誰が信じただろうか?

    私の机の引き出しにはアナログのストップウォッチがある。これは日本の親兄弟と話す目的でわざわざ購入したものだ。それほど国際電話は分刻みの高額料金であったが、時代の流れによって世界は大きく変貌するものである。

  • 南米アマゾンの記憶・2

    2018年03月23日更新

    アマゾンの開発について前回少し話した。私の学生時代は農業関係の大学もあってか一つの大きな方針や考え方として、将来必ず人類が遭遇するであろう食料危機についてどうあるべきか、学生たちは真剣に議論をしていたのである。
    当時の大方の若者は共産思想を好んで学び、資本主義はまるで罪悪のように考えられていた。学生たちは共産主義を支持するか、またはそんなことに関心のないノンポリ*の二者択一であった。今から思うと本当に極端な時代だったと思う。私やその(大学入学後の)仲間たちは、そんな時代を生きながら将来に活路を見い出さねばならなかったのだ。
    そうした中、眼だけがまるで少年のように光る一老教授が創設して7年が経った学科があった。”農業拓殖学科” と呼び、教育指針は質実剛健のもと、世界各地の未利用地帯での食糧増産がミッションであった。
    共産思想やノンポリでもない若者にとっては正に地獄に仏の安住できる地であった。この老教授は三年在学中、南米での1年間の調査実習が始まってすぐにお亡くなりになったのだが、若人へ夢と希望を与えて下さった正に恩師であった。そして多くの卒業生が先生の教えを胸に、世界各地に拓殖学科7期生として海を渡っていった。もう半世紀も昔の話であるが、つい昨日のようだ。

    *ノンポリ:1960~70年代、日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語。

  • 南米アマゾンの記憶・1

    2018年03月20日更新

    前回のミツバチにつく天敵のミツバチヘキイタダニの事を書いていて、若い時に南米アマゾンで過ごしたことを思い出している。
    学生時代に天然ゴム調査で1年程アマゾン川を中心にブラジル大陸に滞在したことがきっかけで、卒業と同時に南米に渡り、以後30年現地で暮らすことになった。未開のアマゾン河流域の原始林に対し、当時外国からの開拓者は開発のために優遇され、ブラジル政府やペルー政府より信じられないほどの安価で土地を買うことができた。流域に沿ってキロメートルいくらといった非常に大雑把な交渉で、何十キロまたは何百キロ単位で所有した土地は奥行きの制限がなく、開拓すればそれが全て自分の所有となった時代があった。(ご参照:ブラジル現地レポート→ http://www.tcn.co.jp/pps/propolis/report.htm )

    こうして焼畑農法によって原始林を伐採した処女地に、当時、対共産主義防衛⇒ベトナム戦争としての戦略物資のコショウ(兵士用の食品、缶詰など加工用)のモノプランテーション(単一栽培)が盛んに行われた。非常に肥沃で健康な土地には大変な収量を得ることができ、約10年間はこうした状態が順調に続いたのである。しかしながら、徐々に原因不明によるコショウの病気や害虫が発生し、結局はこうしたコショウ栽培農場は全滅に近い状態となった経緯がある。
    同時代に、当時は自動車産業に君臨するアメリカのフォード財閥(自動車のフォード)がタイヤ生産に欠かせない天然ゴム生産で豊富な資金と機械力をつぎ込み、天然ゴム栽培のモノプランテーションをアマゾンのジャングルに展開したのだが、結局8年足らずで撤退しコショウ栽培と同じ結果となってしまった。

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