母と私

一方私の母は、戦時中に空襲警報が鳴る中、私と辻家400年伝来の大小日本刀数振りを抱え、浜松市内の防空壕に逃げ廻った話をよく聞いた。今日も一日無事であったこと、明日は全く分からない状態で、田舎に疎開するまで生きた心地ちがしなかったとよく話していた。
私が1歳半のときに終戦を迎えたが、米軍機の襲来で焼夷弾が降り注ぐ真っ赤な光が大好きで、背中ではしゃいでいたとのこと。浜松は軍需産業が集中していたので米軍のターゲットとなり、最初は遠州灘の沖合からの艦砲射撃、続いて上空からの焼夷弾で丸焦げになってしまった。とにかく、浜松駅前から北にある山岳地帯まで見通しができる程、何一つ遮るものがなかったそうだ。
終戦になって田舎に住むようになっても、夜中に占領軍の米軍機が遥か上空を飛行する低音の爆音を聞くたびに、母は身体に震えが来て子供ながらに心配したものだ。そんなことで物心ついた頃から物資は慢性的に不足し、これが都会の生活者だったら本当に大変なことだったろう。でも小学校に通うようになって多くの支援物資が田舎にも届くようになり、特に脱脂粉乳を沢山摂ることができたことは今思うと大いに健康に関係していたことだろう。小学校の倉庫にはユネスコからの支援物資として、圧縮紙でできた大きなドラム缶状の容器があったことをよく覚えている。アフリカのソマリアや北朝鮮の欠食児童の報道を見るたびに、私たちもそのような環境で助けてもらったのだからそれに報いる義務を痛感することがある。

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