父のこと

前回は叔父について少し触れた。父は幼くして両親を亡くし、従妹であり私の叔父と兄弟同様に育てられた。叔父の妻は母の姉であるので叔父ファミリーとは濃い血縁関係にある。
父は日大工学科を卒業して満州に渡り満州鉄道に就職した。そして陸軍に入隊し、支那事変で敵ゲリラ部隊の掃討作戦に加わった。射撃が得意な父は、特別射手として主に敵の指揮官を狙撃する任務だったようだ。戦後、銃をもって静岡県西部の山野へ狩りによく連れて行ってもらったものだ。その腕前は確実で、狙った獲物は必ず仕留めた。当時の私は、狙えば必ず当たるものと思っていたほどその腕前は冴えていた。陸軍を一時退役した父は、浜松市に有った中島飛行機で電気技師として働き終戦を迎えたが、もし技術者でなかったら南方方面に送られ、かなりの確率で戦死していただろうとよく話していた。
                   
戦後、中島飛行機の技術陣の多くは富士重工業に移り、その後自動車関連(スバル)で活躍することになる。ヒット商品となったスバル360の高性能エンジンは、ゼロ戦の技術陣によって生み出された。父は浜松から少し西に下った鷲津という町でモーターの修理工場を友人と共同経営することになり、戦後の復興需要で順調なスタートだったようだ。しかし共同経営はどの時代でもなかなか難しい所があったようだ。
一方、母は4人姉妹の末っ子で戦前実家は浜松市内でも指折りの大きな旅館をやっていたようで、その関係もあり祖父からの援助を基に浜松市の中心街で割烹旅館をすることになり、父は調理師になるために料理学校に通った。当時の同僚たちはペンチが包丁にかわったといって父を冷やかしたらしいが、もともと料理が好きで小さなことにこだわらない、マイペースの父は全く相手にもしなかったようだ。
戦後の高度成長の波に乗り、両親の割烹旅館の繁盛ぶりは浜松でもトップクラスであったようだ。母の女将としての采配と接客には定評があったほどで、こうして弟・妹を含む3人ともに関東の大学へ行かせてくれた。父母の汗水流した働きぶりは今でも脳裏に焼き付いている。叔父・叔母・父も亡くなり、ただ一人、母は今月で100才と6ヶ月になりすこぶる元気に過ごしている。

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