アマゾンへ ~天然活性物質との出会い~

想えばことの始まりは21歳になったばかりの学生時代。パナマ運河を経由し航路45日をかけて1年間南米に大学から調査隊員3名として派遣されたことからだ。どいつもこいつも角材をもって暴れまくっていた学生運動がピークとなる少し前、東京オリンピック開催の翌年1965年である。こうした同世代の仲間たちを尻目に何か違うのではないかと……。大学から派遣されたなどと格好いいことを言ったがこれは名ばかり。1年間の滞在費など本当に雀の涙、綿密な計画書を作って賛助金集めに自民党青年局はじめ、様々な民間団体や企業を回った。ありがたいことに、どこも快く話を聞いてくれたし、先輩の大物政治家に依頼して渡航の為の船会社も紹介してもらった。賛助金以外に現物で、当時では最新の小型テープレコーダーからカメラ・撮影用フィルム・非常用薬剤セット、農機具メーカーからはロゴ入り作業着に至るまで。また「アマゾンには沢山の薬草類があるだろうから是非データが欲しい」と言われ、生薬系の会社から小切手の入った封筒をいただきもした。実に心温まる支援をしてくれたものだった。当時の学生は金がなくて当たり前、しかし、無いのなら何とかしようじゃないかという温かい世間を垣間見た気がした。

そして恩師の教えを胸に世界の未利用地帯に赴き、やがて必ず来るであろう食糧危機の為の生産活動に身を徹する準備として日本を離れ、二十歳そこそこ、怖いものなしでアマゾン河口より流路3,500km以上の現地村々の様々を単独で実体験してきた。もっとも印象深く半世紀以上たった今でも決して忘れることがない旅……それはボリビアとブラジル国境に流れるマデイラ川とマモレ川に沿ってイギリス人が敷いた、生ゴム輸送のジャングル鉄道マディラ・マモレ(Estrada de Ferro Madeira-Mamoré:1912~1972年)に乗り込み、さらに上流のアブナン(Abunã)村を経由し、ガジャラ・ミリン(Guajará-Mirim)村まで大よそ400㎞近い旅だった。ここまで上ると水嵩も少なく、流れも速く滝もあり、船での輸送が困難なことから作った鉄道だった。私が目指すは、それよりさらに北方にあるペルーとの国境で、奥アマゾン支流リオ・プルス川(Rio purus)上流域のデータ集めだった。この鉄道は、未接触インディオで最も凶暴性が強いとされる食人風習があるワリ族の襲撃を恐れ、昔から夜は運航せず、途中の村駅で燃料の薪補給も兼ねて明け方を待つ。

赤道直下の灼熱が照り続く線路脇で毛布をかぶりガタガタ震えている村人を何回も見た。マラリアによる高熱だろう。この鉄道は枕木一本に一人の割合で鉄道工夫たちが死んでいったと言われるほどで、7年の歳月を費やした難工事でもあり、死者は6,000人にも及んだとされている。死因のほとんどがマラリアと黄熱病それにアメーバー原虫による赤痢だった。
血気溢れる若者だった私はそんなことに一切関係なく、現地のデーター集めに没頭していた。テーマは野生ゴムの品種改良による固定化へのアプローチであった。アマゾン原産の野生ゴムはその原料となる樹液分泌があるものとそうでないものが極端で、植林しても樹液に恵まれた樹を得る可能性が非常に少ない。樹液分泌の盛んな種子を実生で育てても確実性は少なく、密林中に点在する樹木より採取するしかないのである。

広域なアマゾン地域に点在する野生ゴムの樹液採取現場を訪れ、それらの品種の相違点や突然変異種の有無などの検証で、ほとんどの生活は原住民と寝食を共にするものだった。アマゾンなどというと日本では湿地帯でワニや毒蛇がうじゃうじゃいて、暑くて夜も眠れずの不健康なイメージである。私はこの地で過ごして一度たりとも蒸し暑くて眠れない所謂、日本でいう「熱帯夜」を経験したことは無い。日中はさすが暑いが、日没となると急に気温が低下する。ハンモックを吊るして寝るのだが、シーツでも掛けないと肌寒い夜もある。ここまで上流になって来るとアンデス山脈に近くなり、時折、急に寒くなることがある。これはアンデスからの雪下ろしが風向きによってやってくるためである。

比較的大型の野生動物はオンサと呼ばれる美しい斑点模様がある豹だが、人間が現れるところにはまず姿を見せない。よくハンターが捕らえた豹の見事な毛皮を板に打って乾燥させ「買わないか」と言われた。今にして考えれば大変な値打ちものだと思う。
爬虫類ではワニや蛇は確かに多い。南米のワニはオーストラリアや東南アジア・北米のクロコダイルやアリゲーターと比べ温和で、人に攻撃してくることは滅多にない。蛇類は非常に種類が多く、確かに危険な種類や毒蛇も多い。しかし、これはアマゾンのような高温地帯には少なく、ブラジル中南部に非常に多い。都会から少し離れればどこにでも普通にいるが、アマゾンには比較的毒蛇種は少ない印象がある。蛇のほとんどが動きが速く、水気を帯びたところに生息する種だが、毒蛇は動きが鈍い種類が多く、乾燥したところを好み、踏んづけて事故が起こる。出血性の毒と神経毒の二種に分かれ、神経毒は感覚神経がやられ、最悪、呼吸困難になることもあるようだ。毒蛇は何度か出くわしたが幸にもこうした事故には遭わずに済んだ。遭遇して駆除した蛇は放置せず、必ず目立つ枝や牧柵の有針鉄線などに吊るし、鳥類が持ち去ってゆく。死んだままにしておくと素足の原住民がその毒牙を踏みつけ、咬まれたのと同じ状態になると教えてくれた。

アマゾンの野生ゴムは世界的なブームとなり、高値で取引された。ヨーロッパからの移民は大きな財を得ることになり、その浪費ぶりも大変なものであった。ジャングルの真ん中にオペラ劇場が1800年代の終わりに建設され、贅沢な大理石やタイル、調度品に至るまですべてイタリアはじめヨーロッパから輸入され、ルネッサンス様式を取り入れ建設された。そして、ヨーロッパの一流オペラ芸人をこのジャングルに招いたのであった。その後、ブラジル政府の厳格な種子持ち出し規制をかいくぐり、外交官特権を悪用したイギリス人によって密輸出された種子がセイロン島やマレー半島、その他イギリスの東南アジアの植民地で植林ゴムとして固定品種の開発に成功し大規模栽培され、アマゾンのゴム景気は終焉を迎えることになる。

そして、私の熱帯ジャングルめぐりも多少は要領が分かってきた。そんなある夜、突然強烈な腹痛と水同様な下痢に襲われた。その後、高熱に魘され、あの赤道下で雪の降る夢を見た。日本から持ってきた薬剤はまったく効かず、日に日に体力は加速度的に落ち、衰弱していった。ひょっとするともうダメかもなと思うことすらあった。世話になっていたシリンゲイロと呼ばれる野生ゴム樹液採取人の小屋で、見かねたインディオ部落から来たという老婆が「これを飲め」とヤシでできた器に入った液体を差し出し、言われるまま、震える手に受け一気に飲み干した。それはそれは恐ろしいほど苦かった。が、これを飲んだ瞬間から「これいいぞ!これで良くなるぞ!」という不思議な五感が働いた。この恐ろしく苦い液体は樹皮を煎じた現地に伝わる民間薬であったことが後に分かった。森の住人たちによってその後も様々な薬草を摂り、見る見る回復していった。天然に存在する生薬とはこんなにも大きな力があるのか!と驚愕すると同時に、アマゾン森の住人たちの功徳に感服したものだった。
そんな実体験があって以来、私には天然の活性物質と森の住人は命の恩人であり、このことは何があっても忘れることのできない、そして人生をも支配する大きな出来事でもあった。

パナマ運河を通って日本への帰路、横浜港に接岸する再度の45日間、体調は完全ではなかったが、若さで乗り切ったという感じだった。学生生活はあと1年残されているが、既に私の思いは天然の活性物質に関する仕事をしたい思いがとりわけ強かった。