ニュージーランドへ ~生産から製品へ“彼女等”と共に~

早急に子供たちだけでも海外の学校に留学させようと、米国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで寄宿舎がある学校を探した。とりあえず長女と長男をと思った。そのころ、私のところにニュージーランドから一通の手紙が届いた。それは同国で最も名高く大きい養蜂会社A社からであった。プロポリス原料についての問い合わせで、是非サンプルを送ってほしいとのことだった。早速、原塊を送った。国際養蜂会議には私の名刺を沢山配ったので、その関係で私の話を聞いたのだろう。手紙には、ニュージーランドには非常に機能性に優れた蜂蜜があることも紹介されていた。この当時はその情報が私にとって非常に貴重なものだと思うに至らなかったのであるが、常に頭の片隅には存在していたのが不思議である。

当時、米国では日本からルイジアナ州に留学していた高校生がハロウィンパーティで誤射による犠牲が出た。その他の国も考えたが消去法で最後にニュージーランドが残った。早速、願書を取り寄せ、様々な手続きと条件をクリアするために家内と尽力した。その甲斐があって入学できることになった。
そして、当地に渡って直接校長と会って入学をさせてもらうことになった。時は1995年、阪神・淡路大震災が起きた1週間後であった。

ニュージーランドへの出発前は母と弟夫婦が住む浜松の実家で過ごした。ブラジルからの時差12時間のせいで寝ることができず、それでもウトウトしていた明け方、まるで家の土台がゆるんでしまったような緩やかで不気味な揺れが少なくとも40秒は続き、早く収まってほしいといった感じであった。テレビを見ると神戸市内のあちらこちらで火災が発生していたが、まだ情報もなく、あれほど酷い大地震と沢山の犠牲者が出るとは想像もしていなかった。

そんな中、成田を発ってシドニーにつき、ホテルに一泊した。ロビーで寛いでいると見知らぬ日本人の学生風の女性が「実は実家が神戸市の中心地にあり、こちらでは正確なことが分かりにくく、できるだけ早く帰国したい」と情報を聞きに来た。「今帰っても大変な混乱なので、もう少し落ち着いてからにした方が良い」と促した。その娘さんの不安な表情は今でもはっきり覚えている。

シドニーから空路タスマン海を横断してニュージーランドに到着した。目的の北島の真ん中にある田舎の中・高校のボーディングスクールに到着して、子供たちの入学・入寮手続きを終え、翌々日オークランドの空港から日本への帰国の途に就いた。当時、長女は15歳、長男は13歳であった。このときの心境は、後ろ髪を引かれる思いとは正にこのことを言うのだと痛切に感じたものである。

このようにしてニュージーランドとの関係ができ、子供たちが住んでいるのなら私たち夫婦と末娘もニュージーランドに住もうと決め、ブラジルから永住査証取得の準備に没頭した。これは非常に難しい諸条件をクリアーしなければならなかったが、それでも頑張った甲斐があってか成就することができた。

こうした行動に至ったのは今から思うと、プロポリス原塊のサンプルを送ったニュージーランドの最大手養蜂会社A社から紹介があった機能性蜂蜜のマヌカハニーについて、養蜂家人生において常に潜在意識として脳裏にあったのではないかと思う。そうした思いは後にマヌカハニーの父ともいうべきピーター・モーラン博士へと結びついてゆくのである。