プロポリス原塊取引問題発生

今になって振り返れば本当に様々なことがあったものだ。中でもこの仕事の一番難しいところは、この国には日本と異なり時間に対する概念と約束ができないことで、これは親しくなるほどその度合いが高まる。生産者が地方に住む養蜂家で、前記したように当初は買い付けの金額を送金すれば必ず約束の量の原塊が届き、安心して前払いができた。このことは既に何の疑いも持たないまでに日常化していた。
ところが前記の国際養蜂会議で、取引している養蜂家たちと初めて顔を合わせてからは次第と取引に支障が出てきたのである。代金を送金しても中々品が届かない。いつまで待っても送ってこない。電話をかけても本人は旅行中や不在、明らかに居留守を使っていると思われるケースが続発。やっと本人をつかまえれば「明日には必ず送る」などといい加減なことを言うのはまだ良い方で、もう送ったとウソを言う。
大きなロットの場合は訴訟までしたが、地方の裁判所はやはりそこの住民が強く、こちらは外国人と言うハンディがある。1度だけ裁判で戦ったがとても勝ち目がなく後悔することになる。悔しい思いを充分にさせてもらった。

結局、このようになってしまったのは何が原因だったのか? 順調に買い付けができていた時は、私が何者であるかが彼らには想像もつかない。見知らぬ者から、原塊を持っているというだけで希望する金額が口座に振り込まれる。ブラジルの場合、非常に小切手発行による決済が盛んだ。誰でも当座預金口座を持ち、金額の大小にかかわらず小切手で決済するケースがほとんどだ。スーパーなどの日用品購入にも普通に使われる。それだけに不渡小切手による事件は日常茶飯事で、小切手を受け取ったからといって決して決済されるまでは安心できない。しかし、私との取引の場合は、彼等が希望する金額が銀行口座に振り込まれるのだから間違いない。ただ、売る側の心境としては、金が送られてきたのは嬉しいが、この人物は一体何者だろう? 毎回電話でやり取りしているが本人を確認したわけではない。要するにある面では「実に薄気味悪い」のである。根掘り葉掘り私の正体を知ろうとして様々なことを聞き出すが、私は企業秘密として肝腎なことはまったく話さない。事実、競合するバイヤーとのこともあるし余分なことは一切話さず、送る金額を両者で決めて、それに見合う原塊がこちらに届く日取りを確認するだけだ。原塊(以下、取引用語で玉=ギョクと言います)は様々なロジスティック業者によって色んな地方から着荷する。考えてみればこれほど能率の良い取引はない。今までのようにちゃんと正確に「玉」が入手でき、その売り先も間違いないのだから。品質については様々だが、回数を重ねていくうちに各地方の品質と特徴が読めるようになってくる。

では、なぜ彼らが私と直接知り合うまではまじめに事故なく「玉」を送ってきたかであるが、これは簡単に言えばブログでも話したように(ブログ:狐と私→ https://tcn-ec.co.jp/nz-message/狐と私/ )幼少のころ田舎に育った私は「狐は人を騙す」と大人から言われて実に長い間怖かった。山野で友達と遊んでいても日暮れになると皆すぐ家に帰った。夜の戸張が降りると狐火が現れきっと化かされるに違いないと信じていたからである。少なくとも郷里の浜松動物園の開園記念日で狐に対面するまではである。
玉を提供する多くの養蜂家たちと1989年第32回国際養蜂会議で初めて握手をするまでは、なぜ養蜂家たちは長い間まじめにキチンと玉を提供し、面会後は実にいい加減になったのだろうか? このことは養蜂家たちの目線では、私が初めて対面した動物園の檻にいる臭くて汚い狐、これに私を置き換えて言えば分かりやすいだろう。
見知らぬ者から「玉が欲しい」と言われ、こちらの言い値で金が送られてくる。しかも前金でだ! 繰り返しになるが子供のころ田舎育ちの私は狐やお化けが本当に怖かった。それはなぜ怖いのかというと要するに何者か正体が分からないからなのだ。戦で敵を知らなければ戦争できないのと同じで、知らないということが一番の恐怖に繋がる。後になって聞いたことだが、取引した養蜂家の多くが共通して持っていた私への印象は「これだけの結構な金額を即送金してくることができるのだから、それにはきっと組織的なバックグランドがあるに違いない」という考えが常であったとのこと。前金で約束した玉は間違いなく送らなければとんでもないことになると恐れていたようだった。

そして、私との面識があった者から順々に取引相手の養蜂家に話が伝わるに従って取引に支障が及んでいった。送金しても約束した日に玉は届かないどころかその資金を流用し、玉は他の業者に売ってしまう。玉があるように見せかけて送金を要求する。まるで詐欺まがいな行為が日常化していった。これは当たり前なのでありブラジルとはそういうところなのである。
一見、情熱的なサンバの国、サッカーやカーニバルに熱狂的な底抜けに明るい善良な市民、カーニバルには全国民が面白おかしく仮想して夜明かしで踊りまくり祭りを楽しむ、香り豊かなブラジリアンコーヒー、サトウキビで作ったピンガと呼ばれる強烈に強い火酒のラム酒、食べ果せないほどの巨大な肉塊の焼き肉パーティーなど挙げたらきりがない。

ところが私のように現地で現実的に生き抜いてきた者の考え方は少し異なる。カーニバルの仮装行列の意味は日ごろの恨みをはたすためにするものであり、本当の目的はそこにある。長い祭りが終わる頃にはどれだけの他殺死体が転がっているだろうか。そして現実が解ってくるにつれラテン音楽の明るさとは裏腹に何とうら淋しい、あの強烈なサンバの太鼓のリズムでさえ悲哀を感じるのである。この辺のところが観光客と実際に人生を現地で演じるものとのギャップでもあろう。

順風満帆だった原塊の買い付けは次第とその困難さを感じるようになって、さらなる問題が発生した。日本からのある金融機関の支配人と親しくなり「体調がすぐれない」と言うのでプロポリス抽出液を進呈した。支配人は非常に気に入り「こんなに良いものなら是非、商事部(同系列の大手商社)に紹介しなければ」と語っていたことを今でも印象深く思い出す。
このとき私は咄嗟に、この原塊の仕事はこれで終わったと悟ったのである。それは資本力に長けた総合商社などによる市場への介入はとても太刀打ちできないということを知っているからだった。この元支配人は帰国され、今でも私の弟とプロポリス抽出液を介して日本でお世話になっている。そのお人柄には本当に頭が下がる思いである。

この当時のブラジルは銀行封鎖をしたものの、一向に経済が向上せず益々貧しくなっていった。私は釣りが好きで、リオデジャネイロ市とサンパウロ市のちょうど中間にある漁港の釣り船を利用することがよくあり、船中泊で1泊2日の釣り三昧を家族全員で楽しむことがあった。そこにサンパウロからの日系人の一団も乗船しており、その中の初老のオジさんが私たちの横に座った。彼曰く「私は今年でブラジル在50年になるが、その間一度たりともこの国の経済が良くなったと思ったことはない」と。
それ以来、この地を離れるまで20数年の歳月が流れ、今度は私が日本から訪れた姪などに彼と全く同じことを話しているのである。ということは、50年と20年で、現在も含めこちらニュージーランドに移って25年少なくとも合計95年間以上ブラジル経済は落ちっぱなしということになる。

現地ではどこの街角にも必ずと言ってよいほどBarと呼ばれるコーヒーや酒を飲ませる立ち飲み屋があり、そこにはちょっとした酒の肴なども用意してある。そこに集まる大人たち(男たち)が世間話や冗談話に花を咲かせる。私もこうした雰囲気が好きなので加わる。彼らの言う冗談は実に現実的で面白い話が多い。上記のことを書きながら脳裏に浮かぶ笑い話がある。イエスキリスト様は実に平等公平だ。ブラジルは大きな国土と大変な地下資源・肥沃な土地に恵まれ何でも生産できる。その素晴らしい土地に神様はブラジル人を住み与えた。そうすることによって他の恵まれない国土を持つ国に対して平等性を担保した。神は実に偉大なりと言ったような話には吹き出してしまうのである。

原塊輸出で貯めた資金はあったので比較的自由な生活はできたが、経済の落ち込みと治安の悪さは止まることがなく、子供たちの将来を考えるとお先真っ暗であった。
仕事から帰宅すると、家内が「今日はヘリコプターが超低空で旋回し、花火のような音が数回した」とのこと。翌日の朝刊を見ると、自宅近くの山の住人が3人警察のヘリで上空から射殺された。麻薬組織と警察との戦争で、もう特に珍しいことでもなかった。そうこうしていると今度は自宅近くのガソリンスタンドの従業員が射殺され、とうとうここまで来たかと切羽詰まった何とも言えない気持ちになったものだ。