ブラジルとプロポリス

そして残された卒業までの1年は高校を対象として南米派遣の調査隊員3名で講演活動をし、講堂に集まった千名以上の生徒を前に、私の担当であった当時としてはまだ珍しい奥アマゾンの流域についての体験を伝え20校程の公演活動をした。これは助成金や賛助物資などを頂いたことへのせめてもの社会還元でもあった。
学生生活はあっという間に過ぎ去り、再び南米航路の旅人となった。

天然の活性物質を職業として扱うまでは紆余曲折があったが、抗ガン活性が古くから伝えられるアマゾン産の紫イッペー(Ipê-Roxo)樹皮、強壮剤として古来から伝わるムイラプアマ(Muirapuama)根などから始まり、輸入業者の身内からの紹介もあって、日本でのプロポリスの将来性を抱き、プロポリス原料の生産と買い付けに着手することになった。今になって想うとどのような起業でも最初は極めて幼稚なことから始まる。商売道具といったらおもちゃのような小さな手ホウキ・塵取り・篩い・家庭用扇風機のみであった。今思うとこれが(株)TCNの出発点でもあった。そして、そこには前記したようにあのアマゾン河の天然活性物質と森の住民とが原点となっていることは言うまでもなかった。

プロポリスについて簡単な案内となるが、これはミツバチが集めてくる樹脂でヤニ状の物質である。シーズンの最盛期には1群6万匹にも達する女王蜂の家族たちは狭い環境内で共同生活をし、またそれを維持する必要がある。そこでプロポリスを利用し、疫病の発生や外敵などからの防御として侵入者を防ぐために巣内の間隙を埋めたり、有害菌の類繁殖を防ぐのである。
樹木の分泌液であるが、樹液には多くの抗菌物質が含まれ、これにミツバチの分泌する酵素が加わってその抗性力を更に強めて利用している。ミツバチは長く続いたシダ植物の時代からこの世に花を持つ顕花植物が現れたと同時に発生したといわれている。数千万年にも及ぶその歴史において、遺伝的にミツバチたちは、どの種の樹液が抗菌・抗ウイルス活性などに秀でているかを知っているものと思われる。それを私たちがエチルアルコールを溶剤として抽出し健康食品として利用している。

ミツバチの巣箱から剥ぎ落したプロポリス原料(以下原塊と言います)には様々な不純物が付着し、新鮮な原塊ほどヤニ状に柔らかく付着物が多い。これらを一つずつ小刀で削り落して除去し、純度を高める必要がある。付着物の多くは、原塊を剥ぎ落すときには、養蜂家必修の道具ハイブツールと呼ばれる先端がノミのような鋭利な道具で削るようにする。その際、巣箱の木片も一緒に剥ぎ落され、その他には蜂の死骸、巣箱に塗ってあるペンキやビーワックスなどが主である。これらを一つ一つの原塊から剥離したり、一緒に含まれている様々な不純物を篩と扇風機を使って分離していく実に細かい作業が必要となってくる。できるだけ純度を高めた原塊にしたいからだ。元々生産現場では地面にシートを敷き、そこで巣箱に付く原塊やワックスを大雑把に取り除くので、そこには様々な現場にある不純物が入ってくる(ブログ:ハイブツールとプロポリス⇒https://tcn-ec.co.jp/nz-message/12626-2/

こうしてできる限りの不純物を取り除いた原塊を袋に収納して出荷準備をする。当時は自分のところで生産したものや養蜂家から買い取った原塊などの支払いで資金も決して潤沢ではなかった。販売先の日本から進出してきた自然食品会社のサンパウロにある倉庫まで400kmを路線バスを使って持ち運んだことを思い出す。その途中、バスの車窓から砕石現場での作業風景が目に入り、それは砕いた石の大きさを選別するためのベルトコンベアーを使っての作業だったが、私もこれくらいの量の原塊を機械的に選別できるようになりたいものだとその現場を通るたびにつくづく思う日が続いた。いま売りに行くためにバスのトランクに乗せている原塊はせいぜい20kg有るか無いか程度だが、少なくとも100kg単位、できればトン単位の仕事をしたいものだと夢見ていた。

当時のブラジル経済は年間1万%に上るハイパーインフレがはじまっていた。私は異国に生きる外国人の一人として、たしかにこの国は世界で最もカトリック信者が多く、独特の優しさを持つ国民感情は大好きであったが、反面、仕事や経済発展についての厳しさとなると想像を絶するというか開いた口が塞がらないほどの次元の違いがあった。同国の金融機関など全く信用することはできなかった。

少ない量の原塊の商いであったが、エンジンなど内燃機関に例えるなら、排気量の大型エンジンのパワーに少しでも近づくための小型エンジン唯一の方法は回転数を上げることしかない。限られた運転資金では取引回数を増やすしかないのである。明けても暮れても原塊仕入れと納品に没頭した。ラッキーなことに日本からの進出企業は、これから日本でのプロポリス需要が大いに高まるものと見抜き「無制限に原塊の仕入れをしたいのでどんどん持ってきてくれ」とのことだった。それに応えるため私は、それこそ持っているパワーを全開にして夜も寝ずにフル回転で頑張った。
日本の24倍の国土面積を有するブラジル大陸を日夜、車を吹っ飛ばし、何千キロも旅をし、原塊集めに熱中した。夜間は大陸のど真ん中で南十字星を確認しながらの旅だ。腹が減れば途中でトラック運転手の立ち寄る100㎞毎ぐらいにある街道筋の飯屋で空腹を満たし、そこの駐車場で大型トラックやトレーラーに挟まれ仮眠をとっての長旅だ。

単調な長旅を職業とした運転手たちにとって旅先の食事は大きな楽しみで、トラックが沢山止まっている飯屋でまずいものを出すところはなかった。Churrascoと呼ばれるブラジル特有の焼き肉で、剣のような長大な串に刺した10Kg に近い牛肉隗や、主に豚・鶏肉・腸詰めなどの定番とカピバーラと言われる野生肉(今は日本で動物園の人気動物)など次々と運ばれ、欲しいだけその場で焼き具合の好みによって大きなナイフで切り取ってくれる。ナイフを深く入れるほどレアーとなり、どこをどのように切れば客の好みに合うかをボーイたちはよく知っている。そしてまた元の炭焼き炉に戻し、結局こうした焼き方が最も無駄なく最後まで肉塊を余すとことなく使える。味付けは地方によって異なるがアルゼンチン方向の南部に行くほど岩塩だけが多くなる。通常、定額で食べ放題の日本でいうバイキング方式だ。こうして肉による満腹感は穀物のそれと異なり、非常に気持ちの良い満足感を得ることができる。今でもこのブラジル風焼き肉は我が家の定番で、燃料には当地NZのマヌカ樹を使い、その煙による独特の風味は本場以上の焼き上がりとなる。

少し寝ればまた街道に出て目的地に向かう。時には30分も経過してから、目的地と反対方向に走っていることに気付き、泣き泣き引き返すこともあった。満天に輝く天の川と南十字星を見ながらの30~40km間隔で緩やかな波状の大陸原野が果てしなく続くナビゲーションは、まるで満天の星空と真っ暗な大海原を走っているごときである。時折、対向してくる車のライトが遠くにゆらゆらと蜃気楼のように見えるが、それが近づいてくるにはすごく時間がかかる。互いに時速100kmで走っていれば合わせて200㎞のスピードなのだが、如何に大陸のスケールが大きいかを知ることができる。南半球では北極星は見えず、唯一方角を示すはずの南極星だが、これに当たる星がなく南十字星方向がおおよその南に当たる。私は今、ニュージーランドに住んでいるが、夜空に輝く南十字星を見るたびに大スケールのブラジル大陸の夜間の旅を思い出すのである。よくあの星を頼りに原塊を集めたものだと。

しかし、こうした途轍もなく広大な国土を持つブラジルの養蜂家をいちいち訪ねていたのならそれこそ日が暮れてしまう。一日3軒の訪問ができれば良いほうなのだ。この不能率でリスクの大きな作戦は没にして、電話作戦に切り替え、ブラジル中の養蜂家を片っ端から調べ上げ「原塊があったら売ってほしい」と頼み込んだ。そして、銀行口座と口座情報を聞き、先方が希望する金額を即送金した。見も知らぬ相手にだ!! ブラジル人の友人は誰もが呆れ顔と言うか「信じられない……」「おまえはバカなのか!?」と。我ながらもそう思った。ラテン社会でこんなことをするのはキチガイ沙汰なのである。金など貸したらまず戻ってこないのが当たり前の社会なのだから、正に狂人である。

ところが左に非ず数日後には正確な量の原塊が間違いなく届き安堵する。この繰り返しが順調で、実に能率的な買い付けが自宅から一歩も出ずに可能となった。文字通りの小型エンジンの高速回転であった。販売先は日本の大手製品メーカー、原塊を持ってゆけば即金に近い状態で支払いをしてくれた。この作戦が奏功して、回転資金が見る見るうちに増えてゆき、同時に日本の大手製品メーカーとの繋がりもでき、益々原塊の買い付けに拍車がかかってゆく。そして原塊の品質は非の打ちどころもないパーフェクトな品だけを出荷した。勿論そこには多くのロスも共存したが、各地からの買い付けをするうちに原塊の生産地域の品質マップができあがり、買い付け地域の絞り込みができるようになっていった。そして、ブラジル社会に大きな、実に大きな事件が突然起きた。

それは余りにもひどいインフレであった。サラリーマンなどは給料をもらったと同時に必需品購入に給料全額を費やした。これは当たり前で、毎日物価が急上昇するので急速に目減りする金を持っておくわけにはいかないのである。そんなある日、突然ブラジル大統領令によって銀行封鎖が発令され、生活もままならない最低額しか口座から引き出せない状態となった。私はかねてからこのようなことが起きても全く不思議ではないことを外国人特有の嗅覚で感じていた。預金は全て米国口座に置き、日本に送った原塊の支払いもすべて米国口座でドル建て決済した。すると今までの原塊の買い付けは資金が凍結されてしまっているので、競合する買い付け業者は誰一人取引ができるものがいない状態となり、すべての原塊を私が独占的に買い付けできる状態となってしまったのである。

養蜂家にしても例外なく銀行封鎖の影響は厳しく、原塊については私を頼りにすれば即、確実に金になるといった妙な?信頼関係が既に全土にできあがっていった。
そして、1989年第32回国際養蜂会議が当時私の地元リオデジャネイロで開催され、世界中の養蜂家がリオに集まった。ブラジルの養蜂家も田舎から大勢が参加し、私は会場にプロポリス原塊を紹介するためブースを設けた。ここで日ごろ電話のみで取引している多くの養蜂家と初めて握手することになる。昨日まで電話で話していた連中だが対面するのは初めてで、全員集めて食事に誘ったり、夜はリオ名物の夜の街、キャバレー・サンバ・ボサノバショーなどを案内した。どいつも皆、素晴らしい連中だった、これで私もこの分野では代表的な存在となると自信満々であった。少なくともこの国際養蜂会議が終わるまでは……。

ここで私にとっての二番目の追い風は1991年10月に開催された第51回日本癌学会において国立予防衛生研究所(現、国立感染症研究所)のウイルス室長であった松野哲也博士と協和醱酵工業(株)(現、協和キリン株式会社)による共同研究グループが、ブラジル産プロポリス抽出液中から抗ガン効果についての成果報告をしたことにより、多くのマスコミ報道でその人気に火が付き一気にプロポリスが世に知られることになる。折しもこの時期はバブル経済が終焉を迎えた直後で、バブル景気で一儲けした人たちが次の獲物は何なのかと探り始めた時でもあった。そして、間違いなくこのプロポリスに可能性を見出し、最も高品質のプロポリス原塊を使って、何とか蒙ったであろうバブル崩壊の痛手を取り戻そうと資本を投下したように思われる。日本から大変な量の原塊のオッファーが飛び込んできたのである。勿論、必死になって集荷に専念した。先にこの仕事を始めた当初は手ホウキ・塵取り・扇風機、そして僅か20kg程の原塊を収めに路線バスで400km先のサンパウロまで運んでいた。その途中、車窓から砕石現場のベルトコンベアーを見て「あの位の量の原塊を取り扱いたいものだ」と夢見たことが実現し、結果的にはブラジルからの日本向け原塊輸出は月間トン単位に達し、日本向け輸出全体の6から7割を私が受け持つことになった。